こんにちは。
最近結構いいペースで更新できてるんじゃないでしょうか。
今日は珍しく現代文の勉強法のお話です。
私は中学受験と大学受験を経験していますが、現代文の勉強法というのがついに分からないまま受験を終えてしまいました。
私の持論は掴みどころのない、本当に伸びるのか分からない「現代文」は捨てて、他教科をやるべきというものでした。
今もその考え自体は変わりありません。圧倒的にコスパが悪いとは思います。
さて、私は大学入学してから10年間でだいたい500冊は本を読んだと思います。
そんな中なんとなく分かってきたことがありますので書いていきます。
Contents
現代文は学力ではなく感性だと思っていたが違った
私は受験生の頃、現代文の解答や解説を読んでも理解できない、納得できないことが多く、客観的に正しい答えなんてないと思っていました。
つまり、たまたま出題者と感性が一致した人が得点を貰える茶番であると思っていました。
数学のような合理的に正しいと思われる思考の積み重ねに見えませんでした。
今でも数学とは決定的に違うと思いますが、客観的に正しい答えは存在すると思えるようになりました。
現代文の勉強法は存在しないと思っていたが違った
私は受験生の頃、現代文の解法に再現性がないと思っていましたが、実際は違うことがわかりました。
大量に読書をしていると(私はそんなに読書家ではありませんが…)、同じような内容の本がたくさんあることに気づきます。
「あ、これはこのパターンね。」という瞬間がたくさんあるのです。
でもよく考えてください。数学だってそうでしょう。
「あ、ベクトルの始点を揃えると解けるやつね。」
「あ、両辺の対数を取って微分するやつね。」
「あ、余条件の方が単純だから背理法で示せそう。」
という瞬間があるはずです。
現代文も同じなのです。
ツイッターで凄く面白いアカウントを見つけました。
この方をフォローして読んでみることをおすすめします。
もともと世界は切れ目のない連続体、つまり「混沌」である。人間は言語によって、個々の事物に名称を与えることで、その連続体を「分節」し、世界に「秩序」をもたらした――なんてのは、現代文の言語論にありがちな話。「命名とはすなわち認識である」ってタイプの話は覚えておいて損はないよ。
— 現代文たん (@gendaibuntan) October 24, 2019
「構造主義」のポイントは、「異なる文化や社会同士の背景に潜む共通の構造を顕在化させる」という発想にあるね。つまり、共通性を根拠にあらゆる文化や社会が対等に扱われるようになった、とも言える。大学の講義で「サブカルチャー」が扱われるようになったのは、じつは構造主義の台頭が大きいよ。
— 現代文たん (@gendaibuntan) October 28, 2019
こういう知識が試験で役に立つわけです。
私は受験生の頃「そんな知識が本番で使えるとは限らないだろう」と思っていましたが、
それは数学の「ベクトルの始点を揃える」という話も同じなわけです。
ただ、上記の例を見て分かる通り、思想、哲学への理解と知識が必要になるわけですから、果てはないです。
受験生が限られた時間で勉強するべき科目とは今でも思っていません。
数学は勉強しなければ簡単に0点になるでしょうが、現代文はそうならないはずです。
伸び代の少ないコストパフォーマンスの悪い教科であることは間違いと思っています。
そんなわけで結局結論は変わらないオチですが、現代文の勉強法に困ってる方の参考になれば幸いです。
それでは皆さんグッドラック。
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