偏差値70からの大学受験Part6

の続きです。

 


 

 

4、夜間生が全国ランキングについに登場!

受験は才能ではない、迷いがフッ切れる!

 

 

 

返却された6月の試験は、実情の成績がしっかりと出た。

英語は偏差値77、8。国語は偏差値73。数学は67。公民66。

当然早稲田慶応はどこ書いても、全て判定はマックス80%のA判定。国立の一橋大学でさえ、1000人の全志望者中、第9位の位置までにいた。

 

僕は確かな自信が沸き上がってくるのが感じた。

こんな数字、僕は2年前には想像もつかなかった。「偏差値70後半」なんて「天才」だと思っていた。

ところが僕はついにここまでやってきた。全国ランキングにも名前が出ている。「天才」でしかたどり着けないと思っていた場所に、僕自身が立っている。そうここまで勉強すれば、誰でも取れる成績だったのだ。

「受験に合格できるか」は分からないが、「偏差値」だけは誰でも取れる簡単なことだった。世間で目の敵にされる様な、「タチノワルイ」ものではなかったのだ。むしろ「正々堂々」としていた。

「僕はもうだまされない。受験は才能じゃない」と決心してからは、もう迷いはなかった。

「このままずっと勉強し続けてやる。そして偏差値も上げまくってやる」

 

そしておかしな事だが、勉強は楽しくなかったものの、この時から模擬試験は楽しくなった。それは何故かというと、「偏差値がとれるようになった」からだ。

例えばこういうことだ。僕は陸上部で、長距離が得意だ。学校の体育の授業で、みんなが嫌う「長距離」になった時、僕だけは楽しみだった。みんなよりタイムが速くて、活躍出来るからだ。自分が得意だったら、どんなものでも楽しくなるのだ。こんな感覚みなさんにもあるだろう。

信じられないことだったが、「勉強」にもそれが通用した。つまり何のこともない、「勉強」も「スポ−ツ」と同じで、何も「神秘的」なものではなかったのだ。

後に塾で講師をやった時のことだ。そこでは、わざわざテストの点数を生徒に隠し、彼らを傷つけない様に、かなり気を使ったりした。「やりたい勉強、偏差値で学校を選ぶな」相変わらず、こればっかりだ。「差別化」は絶対厳禁だった。ではサッカ−の授業で、差別化しないように、上手い奴はテントの中へ隔離したりするのだろうか。それでは誰も上手くはならないだろう。

「勉強」も「サッカ−」もみんな同じだ。サッカ−でも練習がイヤで、試合やゲ−ムが楽しみなように、勉強でも毎日の勉強がいやだけど、ゲ−ムである「模擬試験」は楽しみだ。だからその試験のために勉強していく。その結果一番嬉しい「合格」がある。それだけのものだった。

それなのに何で「勉強」はすごい事、特別なものと見られるのだろうか。僕はここまで勉強していく事で、自分が教えられてきた「勉強像」が、かなり間違いである事に気付いた。

 

ついに僕は偏差値70から走り始めた。見たこともない世界がそこにあり、僕は様々な体験をすることになる。「良い大学」に受かって、人から認められたい、そして何より、自分で自分を認めたい、こう強く願っていた。その気持ち僕をここまで動かした。

そして「絶望」と思われた「合格」も確実に目の前に現れた。迷うことはない。やり続けるのだ。「合格」する、「脱出」する、僕は確かな手応えを感じた。

 

 

5、偏差値80を目指す夜間生。

これが僕の狂った受験勉強スタイルだ!

 

 

 

シンジさんは僕の知る中では、唯一コンプレックス正直に認め、正々堂々戦っている人だった。

関西での最大規模での編入模試でも、論文ランキング2位。英語も受験時代から偏差値70。編入試験の内申書である、大学の成績はほとんどA。つまり彼は編入において死角がない。必ず合格するラインにいた。

やることは何でもやる、身近な編入から確実に決める、そういう強い意志が感じられた。そんな彼を僕は尊敬し、彼も僕を尊敬してくれた。

僕はシンジさんとしょっちゅう一緒に勉強していた。一人で勉強していると、本当にイヤになってくるが、彼と勉強していると「自分もさぼれない」と闘志がわいた。それに何より、「孤独」が紛らわされた。

それでもやはり勉強は、楽しいものではなく、「苦痛」だった。

静かな場所で机に向かって勉強するという事に、僕はもはや耐えられなくなっていた。そりゃそうだ、2年近くも受験勉強をしているからだ。その状況におかしくなりそうだった。楽しいことなんて何もない。限界といえば、限界だった。

だからなるべく外で勉強するようにした。ざわざわしている大学の食堂が、「人恋しい」気持ちを癒してくれて、一番勉強しやすかった。

朝9時くらいから自宅で3時間ほど勉強し、気分転換もかねて大学に移動する。そして昼の1時から、合流したシンジさんと、大学の授業までひたすら勉強。さらに夕方から始まる夜間の授業中も、まるで高校生の内職の様に、勉強し続けた。最後に家に帰っきて、夜の11時から深夜の1時くらいまで、また勉強。ト−タルで相変わらず10時間ほどはやっていた。

ところが一つ問題だったのが、「お金」だった。親は僕がまさかまだ受験しているなんて知らない。だから普通にバイトもしているだろうと考えて、大体一月に4万円くらいの食費を、仕送りしてくれた。普通に考えればこれは当然の額だが、受験勉強をしている僕にとって、少し問題があった。

月4万なら、一日1000円ちょっと使えるわけだが、僕は受験勉強に過去問題コ−ピ−を大量にしていたので、ここでお金を使ってしまった。

大体一日に軽く50枚以上はコピ−していから、そうすると残りの食費は500円から700円程度になってしまう。だから朝は抜いて、昼と夜は200円ちょっとの食事になった。

大学ではほとんど毎日、一杯220円のラ−メンを食べたりしていた。夜はハンバ−ガ−かカップラ−メンが多かった。安くて腹のはるものなら何でもよかったので、ある時は「柿の種」を大量に買い込んで、一週間ほど夕飯は毎日「柿の種」を食べたりした。

それだと栄養的にかなり問題があるので、最後は「自炊」に落ち着いた。お米を10キロまとめ買いして、毎日少しずつ炊く。そして白米の上に、おかずを一品のせるだけ。そのおかずは豆腐や納豆、ノリ、生卵などが多かった。そんな「穀類生活」に耐えられず、どうしても肉が食べたくなって時は、ハンバ−ガ−の肉を取り出して、おかずにしたりしていた。

また新しい過去問題集を買ったり(1600円程度)、模擬試験を受験したりする時は(4000円程度)、もう大変だ。どうしようもないくらい生活が苦しくなったりした。

親に一言「受験するから、お金くれ」と伝えれば、すべては解決する問題だが、1浪目は散々ワガママをさせてもらった身だ。それでも合格しなかった。口が裂けても「2浪する」なんて言えなかった。何よりそんな惨めな自分を見せるのはイヤだった。そんな恥ずかしい自分を見せるくらいなら、黙って勉強する方がよっぽどマシ、と思った。

ところがこんな「受験貧乏」は、僕だけではなかった。僕よりももっと悲惨な人がいた。それはシンジさんだ。彼は編入の予備校に通っていたので、お金が大量に無くなっていた。当然勉強からバイトする時間もなく、本当に貧困だった。彼も僕と同じ様な予算で、食費を立てていた。

彼は大学ではほぼ毎日、120円の中ライスに、60円の小さいメンチカツ一個を注文し、ケチャップをかけて食べていた。200円にも満たないその食生活は、本当に質素で、「こんなクサイ飯食うのも、今年限りにしたいですよ。早く抜け出したいです」といつもこぼしていた。

栄養のことなど一切気にしない彼の夕食などは、もっとひどいもので、カップラ−メンなどは当たり前。ポテトチップスを20日間食べ続けたり、チョコレ−トのお菓子で一週間暮らしたりと、もう何でもありの状況だった。

彼は神戸に来てから、1年間チョイもこの生活を繰り返していたため、体が既にボロボロだった。いつも食べ物が入ると、お腹がおかしくなって、トイレに駆け込んでいた。その光景はいつも異様だった。

彼は言った。「もうこんな夜間に居たくないです。コンプレックスに疲れました。人間はこんなもんです。合格はしたいけど、これから長くは生きていたくはないです」と。少し自虐的な感情があったシンジさんは、この生活を苦とせず、むしろあえて自分の身をこの様な状況に置いて、傷つけているとしか見えなかった。

僕は彼を止めることは出来なかった。夜間に身を置く「クサイ」僕達は、昼間の連中が楽しそうにおしゃべりをしながら、爽やかにゴハンを食べているその横で、同じように美味しくゴハンは食べれなかった。それが現実だ。「夜間」を抜け出さない限り、コンプレックスに陥った僕達は、ゴハンでさえ美味しくない。まして幸せには絶対なれないのだ。今年は徹底的に腐るしかない。

信じられないくらいに、僕達の考え方は曲がっていた。しかしこのネジ曲がった考えは、その異常さゆえ、本当に力になった。自分を極限にまで追い込むことが出来た。

僕達はこんな自分たちの活動を、勝手に「サ−クル」化した。

その名は「脱出部」。コンプレックスから抜けだし、真の「自分」を獲得するのが目的だ。別に何かイベントをするわけではない。ただただ毎日ひたすら勉強するだけだ。

大学側に公式に認めてもらおうと思ったが、やめた。怒鳴り帰されるのがオチだからだ。 こうして二人だけの「脱出部」が幕を開け、共に壮絶な戦いに挑んでいく事になる。

去年のカズヤさんとの1年間とは全く違う、ドラマが始まったのだ。

 

 

6、7−8月。

コンプレックスの巣窟、大学のサ−クルとはこんなもんだ!

 

 

 

そんな僕達だったが、夏休みに入ると「息抜き」のため、月に一回、大学のサ−クルに行くことになった。これが僕を、さらに狂わせた。

サ−クルとは、大学で青春を謳歌する素晴らしいものと、世間では言われている。

ところがこれはデタラメだった。

全てのサ−クルがそうだとは言えないが、少なくとも僕の行ったサ−クルは、楽しみたいけど楽しめなかった。偏差値の低い者には、その「楽しむ」資格がなかった。

参加したのは、あるディベートサークルだった。このサ−クルは神戸大学だけでなく、様々な大学との共同で運営する、全部で20人ほどの小さいサ−クルだった。「いろんな大学同志、仲良くやろう」、これが彼らのテ−マだった。

ところがこの「共同運営」というのが、一番まずかったのだ。様々に偏差値の違う大学同志が、仲良くやっていけるはずないのだ。20に近い大人達が、「平和に平等に」なんて、出来るはずないのだ。

なまじっか「ディベ−ト(討論)」で活動するので、サ−クルの権力は「いかに知性をアピ−ルし、ディベ−トで活躍するか」で決まった。となると男性は誰でも「権力」にあこがれるので、ディベ−トでいいカッコを目指す。

ところがここで大問題だ。

そう「大学名」だ。神戸大学のヤツが発言すれば、全員「すごい」となるが、偏差値40代の大学の連中が発言すると、「調子にのるな」というキツい視線がビリビリと支配する。つまり「偏差値が低い人間は、説得力がないよ」という訳だ。案の定偏差値が低いのに、イキがるヤツは、どんどんサ−クルを脱退せざる得なくなる。

表面上は「人間平等だ。偏差値じゃなく人間性でしょう」と言っているが、実情はとんでもなかった。「あの人は偏差値が低くても、人間が素晴らしい」というヤツもいたが、大体ディベ−トでは静かに目立っていない人間だった。卑屈に生きていれば、偏差値が低くても評判を得ていた。だが卑屈に生きられる人間なんていない。

舞台裏では、偏差値の低いやつは偏差値の高いやつを否定し、高いやつは低いやつをバカにしていた。

気になる女の子の評価でも、「大学名」は確実にブランドとなっていた。もちろんルックスの善し悪しもあるが、正直になれば、「大学名」ブランドが大きな決定力になっていた事は事実だ。

 

「男はカッコよさか内面」、というのが僕の高校時代だった。ところがここでは「大学名」というブランドが加わった。

基本的に大学生はほとんど暇だ。何かに打ち込んでいる奴なんていない。みんな動きを一斉に止めているので、やはり唯一差が出るのは「大学名」くらいだったのだ。

 

「大学名」、「権力争い」、「人の悪口」、「男女問題」、それらが渦巻くサ−クルは、ある種「社会の縮図」だった。

僕はといえば、「斎藤はノンキでいいよな」「いつも笑っていられて、うらやましいよ」「バカだな、オマエは」、いつもこうだった。ある時は、「神戸大学でも、夜間でしょ?」と、女の子にまでバカにされた。しかし全部事実だ。反論しても「負け犬の遠吠え」だ。黙るしかない。

僕は完全にナメられていた。ここでも評価の基準は、「神戸大学夜間」だった。

サ−クルで卑屈に生きる自分の姿を見るのが、本当にヤル気を起こさせた。「こんな姿で一生終わりたくない」そう奮い立たせられた。

口でどうこう言っても始まらない、体で分からせてやるぞ!僕はこう決心した。これが全てのきっかけだった。

僕はサ−クル全員の評価をくつがえすため、英検準1級、模擬試験勝負の挑戦状をたたきつけた。相手はもちろん、サ−クル内で権力を握る、「神戸大学、昼間生」だ。

 

 

7、9月。ついに偏差値80の夜間生が本性を表わす!

夜間生VS昼間生、模擬試験で対決だ!

 

 

 

夏が終わった。僕の受験勉強はついに2年を超えた。実際この頃になると、自分でもかなりの力がついているのが分かった。

日本では英語の受験レベルを超えているとされる、慶応大学の総合政策、環境情報学部、通称「SFC」の入試問題がある。3、4ペ−ジの難解な英文を読み、30個の選択肢題に答えるというものだ。以前テレビで、本場のアメリカ人でも「分からない」と言っていたのを見た。それくらい難しいのだ。当然受験界でもバッシングは凄まじく、「合格者の大半は運で決まる」とまで酷評されている試験だ。

1浪目、確かに早稲田慶応レベルは解けたが、このSFCは別格だった。自分では解けることなんて有り得ない、と思っていた。予備校でも具体的な勉強方法が確立されていない程、「有り得ない試験」だからだ。

ところがこれだけ勉強して、何千もの英文を読みこなしていった僕は、ついにSFCまでも、確実に分かる様になっていた。やはり受験に不可能はないのだ。努力すればどんな問題でも、必ず出来るようになる。そう確信した。

「読める!確かに読める!」この興奮は今でも忘れない。あれだけ難しいと思った問題が、確実に出来ている。運ではなく、しっかりと文章構造までがつかめていた。時間は多少かかるが、7割から8割程度まで得点出来るまでになっていた。かたっぱしから「要約」もしていった。

こんなところまで自分を引き上げた。だからその力を、サ−クル中に分からせてやりたかった。勝負だ。誰が一番すごいかはっきりさせてやる。

彼らにこう叫ぶのだ。ここに偏差値80近くの「夜間」がいるぞ、君たちの大好きな大学名を追い求める、’偏差値の亡者’がいるぞ、と。

矛盾するかもしれないが、「大学名で人は判断できない」という事を、実感させたかった。

 

どうしたら最も衝撃的か。

僕はこう考えた。この登場シ−ンは、出来るだけ派手な方がいい。

「そうだ、昼間の学生と一緒に受験して、勝負してやればいい」

僕はヤキソバという神戸大学昼間のヤツに、「英語検定準1級、一緒に受けないか?」と誘った。

英検準1級は、偏差値70レベルの難関試験だ。サ−クルではその時、誰も持っていなかった。サ−クルで評判の彼は、僕の事を「バカ」だとしか思っていないので、快く受験を承諾した。

「一緒に受けよう」と言っている時点で、もう勝負だということだ。しかし彼にとって僕は相手だとも思われていなかった。

 

僕はサ−クル中にこの勝負を伝えた。

僕は最も得意とするフィ−ルドで、彼と戦うことになった。

「夜間」VS「昼間」ついにこの勝負がやってきた。あれだけあこがれていた「昼間」の人間と、この手で戦えるのだ。

サ−クル中は「ヤキソバ勝ち」を確実としていた。いや、勝負とさえ見ていなかった。あの斎藤が勘違いしてるぞ、という位だったのだろう。

第一戦は9月の模擬試験。第二戦は10月の英語検定準1級。公平を期して、勝負科目は英語一教科。これなら大学生、受験生関係ない。周りは何とも思っていなかったが、僕は絶対に負けるわけにはいかなかった。意地があった。

 

 


偏差値70からの大学受験Part7に続きます。

dngr

東大理三を目指して浪人し、東大模試で理三A判定、センター試験本番で93%得点したところまでは良かったが、550点中1.8点差で不合格になり、慶應医学部に進学して、勉強法ブログをずっと書いているどんぐり。 あと英単語・古文単語学習用アプリを作っています。

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