偏差値70からの大学受験Part8

からの続きです。


 

 

13、勝利!

 

 

 

かすむ意識の中、僕は合格掲示板を見た。

最難関の「地域文化学科英語」の合格者は、40人近く受けてわずか3名。見た瞬間分かった。

「あるわ!」

僕はその場に崩れ落ちた。

掲示板に自分の番号はないもんだ、こう慣れきっていた。落ち続けた僕は、もう何も信じられなくなっていた。

しかし今は違う!僕の番号が、目の前にあるのだ!見事完全合格だった。

思えば当然だった。偏差値80の受験生だ。実際、落ちるはずがない。しかしそんな余裕、僕には無かった。とにかく嬉しかった。異常なまでの派手なその喜び方に、外大生の奇異の視線を思わず集める。僕は狂喜の中にいた。人生が大きく動いていく実感がわいた。

もう僕は夜間生ではないのだ。偏差値70の大阪外語生なのだ。楽しいキャンパスライフはここから始まる、そう僕は自分に言い聞かせた。目の前がバラ色とはこの事だろうか。 「夜間から抜け出した」

僕はついにやり遂げたのだ。

喜びに打ち震える手で、僕は友人達に電話しまくっていた。結果を出した今、ようやく胸を張れる。

「まだやってたんだ、オマエもよくやるな。まあお疲れさま」

みんなは呆れながらも、口々にこうほめてくれた。屈辱に耐え切れず、友達と会う事はもちろん、その声さえ聞きたくなかった9カ月前。思えば本当に長い戦いだった。

シンジさんは食堂で、僕の凱旋を迎えてくれた。

「やりましたね!やりましたね!」

満面の笑みを浮かべながら、僕達は大声で叫んでいた。

夜間の連中は、僕の結果を今か今かと待ち望んでいる。「落ちてくれ、落ちろ!」こう切願しているに違いない。

「行ってやるか」

僕達が勝者になる瞬間だった。

 

クラスに入ると、誰にも聞こえる大声で、「受かった、受かった!夜間脱出成功!」と叫び散らした。僕はすぐさま、IQ、イガ、ヒルマの顔を見る。

いつもの嫌らしい笑顔はなかった。悔しさと妬みで、顔が歪んでいるのだ。僕ははっと気付き、クラス全員を見回した。そう誰もがこちらを見つめ、顔を引きつらせている。

僕はためらわなかった。容赦など、どこにもない。

「来年の4月から、僕は大阪外語大生。英語学科、偏差値70です!」、そう言い放って教室を出た。

次の日、模試事件を上回る800枚もの大量のビラが、神戸大学中に再び貼り出された。 真っ黒な下地に、白色の派手な文字。その風体は、模擬試験ビラと同じだ。しかしその内容は、模試を超える衝撃度だった。

「たかが模擬試験、受かってから言えよ、偏差値80なんてすごくない」

数々のご批判ありがとう。だからその通り本当の大学に、受かってやったぞ!僕の魂の叫びが、神戸大学中にこだまする。

「大阪外語大学、地域文化英語学科(偏差値70)合格!夜間生が勝利!」     こんな見出しだった。またも大学中がパニックになった事は、言うまでもないだろう。

夜間生にもう敵はいなくなった。「やられたら、100倍にして返す。それが斎藤だ」、この意味に彼らがようやく気付いた。しかし時すでに遅し。彼らは卑屈に黙るしかないのだ。ただ僕も優しい。「合格したよ」それ以上の攻撃はしなかった。必要以上の自慢に酔ったりはしない。しかし彼らにとって、その一言でも十分なブロ−となって、叩き込まれていたのだ。

僕達の勝利の日だった。

サ−クルでも僕は誉めたたえられた。つい数ヶ月前までは僕をバカにしていた女の子も、「やっぱり頭がいいんだね」と、笑みのない引きつった顔で、しきりにかつぎあげてくれる。

「連中と並んだ」、僕は確かな手応えを感じていた。

「夜間を抜け出した。合格した」この心からの願いが満いたされた今、僕は全てが報われた。人生最高の充実の中にいた。

「ウソじゃないよな?夢じゃないよな?」

まさに非現実である。

 

 

14、そして奇跡の大逆転!!

 

 

 

20世紀の終わりが迫る、12月末の事だった。

大阪外大の勢いに乗って、一般入試も全部合格してやる、こう心に決めていた。外大の合格という「確実な保険」は、そんな受験を続ける僕を、楽にしてくれていた。外大合格があるか、ないかでは話が全然違う。肩の力が抜け、余裕が生まれた。

そんな中、外語大学から一通の手紙が来る。

これが運命を狂わせる、全ての始まりだった。

「入学おめでとうございます」こんな祝電の様な内容だったが、僕はある箇所にはっと目を止めた。それは入学条件である、「単位数」であった。

1年生編入では入学条件で32単位必要である。普通の昼間の大学生にとっては、難なくクリア出来る楽な単位数だ。

ところが「夜間」では話が違う。

夜しか授業のない夜間では、一年間に最高で32単位ギリギリしか取れないのである。そうなると、僕は最高単位数を取らなければならない。

普通の昼間の大学なら50単位ほど登録して、その中から32単位とればよい。余裕である。ところが夜間は32単位しか登録できない。全部取らないと32単位という条件は満たせない。

「夜間」、この言葉がまた僕をしめつける。

フルで単位を稼ぐためには、しっかりと腰を据えて勉強をしないと難しいもの。ただ受験勉強を続ける僕にとって、果たしてそれは良い事なのだろうか、こんな疑問が生まれた。

編入受験当初、僕は「単位数」について軽くしか考えていなかった。そんな事より、まず試験に合格することだ、と自分に言い聞かせていたからだ。編入受験生なら誰でもそうだろう。「単位」など心配にも及ばない些細な問題だ。

ただ「夜間」では話が違ったのだ。

単位を取るために、受験勉強をやりながら、大学の勉強もやればいいじゃないか、と思った事もあった。

しかし正直になれば、それが決して良い事とは言えないだろう。これから僕はさらなる高みに向けて、どんどんペ−スを上げていかねばならない。その先には「早稲田慶応」、そして「東大」が待っている。大学の勉強している少しの暇があったら、もっともっと受験勉強をしなければならないのではないか。

また続いてその手紙には、こう書いてあった。

「入学金30万は、1月25日までにお納めください」

2月の一般入試も受験するんです、お金はそれまで待ってくださいなんて、都合の良い事は通じない。このまま受験を続けるための保険にしては、30万は高すぎる金額であろう。

今、入学金30万円払うなら、受験を断念して大学の勉強に集中し、大阪外大に確実に行かないと筋が通らない。また、もし外大よりさらに良い大学を狙うなら、外大を捨てて受験勉強に専念しなければならない。

受験も外大どっちも両方など、「妥協」は出来ない。やるんだったら、どちらか一つという状況に追い込まれてきた。

最高の幸せから一転、思いも寄らずに事態が一変した。

「ここでやめるか」

僕はふとそう思った。ここまでよく頑張った。偏差値80まで上げてきた。今の大阪外語大学でも十分素晴らしい大学だ。胸を張って自分を紹介できる。「大阪外語大学生です、偏差値70です」と文句ない。説得力を持って夢を語れる。

ある意味「保険」が出来た事で、僕の意志は弱くなっていた。受験勉強も常に限界のラインにいる。いつでも投げ出したい思いで一杯だ。

毎日悩み続けた、そんな時だった。

僕の話を聞いていたシンジさんが、一言こう言った。

 

「今ならいけるんじゃないでしょうか」

 

今思えば、この一言が僕の運命を変えた。

彼はこう続ける。「斎藤サンは偏差値80まで来ました。そして難なく大阪外語まで手に入れましたよ。だから今ならいけます。東大や早稲田慶応も確実にいけますよ。日本の頂点が、今目の前に見えているんですよ!」

僕は全身に衝撃が走り、答えが決まった。

今、自分が立っているその位置は、とんでもないところだったのだ。目の前には「早稲田慶応」だけではない、頂点である「東京大学」までもがある。「夜間」脱出を願い、ブランドに憧れ続けて、ここまで来た。がむしゃらに走っていたら、気付けばどこの大学でも合格出来る力が付いていたのだ。

「今ならいける」この言葉が全てだった。僕は大阪外語大学という最後のトリデを捨てた。

僕は「妥協」だけはしたくなかった。変な言い訳をして、これからの一般入試の戦いを汚したくはなかった。そう去年は心に決めていたはずだ。「偏差値の高い大学に行って、ほめられたい」、そんな僕の思いは、何一つ迷いや虚飾も無い。だからこそ、そんな純粋さが僕を極限まで追い込んだのだ。

「奇跡」だった。

誰もが受験が終わったと思った。僕でさえも一応のケリをつけたつもりだった。しかし、何一つ終わってなどいなかったのである。

大阪外語大合格は消えた。そして僕には何も無くなった。

「夜間」ゆえに僕はブランドに執心し、ここまでやって来た。だが最後はその「夜間」が、「単位数」という些細な条件をこじ開けて、重くのしかかってきた。始まりも終わりも、やはり「夜間」だったのだ。

僕はこの奇跡に、悔しさと恐怖を感じながら打ち震えていた。

自分で決めたことだ。文句は言えない。しかしそんなことを言っているのではない。なんでこんなにツイていないのか、という事だ。確実になったはずの「夜間脱出」。しかし奇跡が起きた。やはり叶わなかった。

 

12月28日を最後に大学は、1月終わりから2月初めの試験週間まで冬季休業に入る。その最後の授業日、僕は大学に向かった。クラスの連中に会うためだ。

僕は最初に会ったIQに、一言だけ伝えた。

これが最後の宣戦布告だった。

 

「大阪外語大学には行かない。もうここの夜間の授業にも出ない。一般入試で東大に行くためだ。」

 

彼の顔は満面の笑みに変わった。僕はこの瞬間を忘れない。

「信じられないね、合格出来たのにね」、彼は同情しながらも顔は笑顔だった。

当然のことながら、一気にその情報はクラス中に広まった。

誰もが息を吹き返した様に元気になり、勝敗の立場が逆転した。「まだやるのか、受からないよ」と繰り返される。

別れ際に、彼らはこう言った。

「来年僕らは編入するから。ここには京大を狙うヤツもいるんだよ」

夜間にもオマエと同じくらい頭イイ奴もいるんだ、あまり馬鹿にするなよ。オマエは仲間じゃない、勝手にやれ。そういう彼らからの決別のメッセ−ジだった。

確かに僕はそれだけのことを、やってしまった。

模擬試験のビラをばらまいたり、合格証明書まで貼りだした。自分の思いを伝えるためだけなら、「真実」をこれでもかと叫んだ。これは夜間の連中にとって、やはり「不快」の何ものでもなかったのだろう。

「偏差値低いからクサい、こう言われても文句言えないよ、社会は厳しい」こんな事分かっていても、彼らにとって目をつぶっていたい話なのだ。それなのにワザワザ僕が傷口に塩を塗る。余計なお世話だ。

「自分で勝手にやれ」これが彼らの正直な声なのだろう。だから夜間全員が敵になった。こんな状況に追い込まれた。

「もう、ここに戻ってくる訳には行かない」

自分で落ちた時の事を考えた。

「あいつ帰ってきたよ・・・」、偏差値80の自分が、夜間のクラス全員に蔑まれている。耐えられない。そして何より次の目標は何だ?2年生編入か?もうイヤだ。勉強なんかしたくない。

大阪外語大の時も「これが最後だ」と感じた。でもあの時は、その後一般入試もあった。しかし今回は本当に「最後」だ。もうこれを逃したら、2度とチャンスはない。

「落ちたらどうする?」

そう自分で自分に問いかけた。すると自然と、心から答えが返ってきた。

 

「死ぬか・・・」

 

迷いなど、どこにもなかった。この受験が僕の人生最後の勝負になった。

大げさに言うのではない。こんなに勉強し続けた。自分の全てをこの受験にかけた。その間にはいろいろな事があった。カズヤもいた。シンジもいた。80まで数字を上げた。そして自分だけが落ちる・・・。

僕は当初、「絶対に落ちることのない受験」を目指していた。

皮肉だ。ここにきて、僕はついに絶対に「落ちる」ことは無くなった。そう、落ちたら僕の人生はそこで終わるからだ。究極の結論だった。

よく「受験なんかで落ちて、死ぬなんてバカだ」と本で書かれている。しかしそうだろうか。本気で受験に打ち込んだ、そして人生をかけた。それが何でダメなのか。もちろん「自殺」なんてタブ−だ。しかし本気で何かをやり遂げる時、勉強でも何でもそれだけの強い意志が必要なのではないか。

シンジさんは僕の行動を止めはしなかった。「そうですか・・・」彼は頷いただけだった。当然だろう。この僕の2年間を全て知っているからだ。

彼は僕の決意を分かってくれた。そして「必ず受かります」そう繰り返した。

 

その3日後の、12月30日。2年間家で共に暮らしたネコの調子が急変する。そのまま病院に担ぎ込んだが、「結石」という病気が悪化していた。受験生という余裕の無さ故に、僕は彼の病気の前兆を捉えられないでいたのだ。全て自分のせいだった。

ペット以上の想いを寄せたネコが、亡くなった。彼は僕の顔を見つめながら、静かに息を引き取っていった。

最後に残されたのはやはり僕一人だった。

だが「孤独」という感情はもう忘れていた。「生きる」ためには「合格」しかない。もう戻る場所もない。進むしか道はないのだ。

 

 

15、2001年1月。最後の戦い!決戦の舞台が決まる!

 

 

 

年が明けた。21世紀の幕開けであった。

 

実際この頃になると、「英語」もほぼ完成の領域に入っていた。

SFCの問題でも9割は確実に取れていた。英語検定準1級レベルまでの単語は、完璧に暗記していたので、まず分からない語句はほとんどない。英語でも日本語でも関係なく、難易度の高い文章が読めるようになっていた。

編入界から受験界へと復帰し、12月31日に受けた「慶応大学SFCプレ試験」では、思うような出来でないにしても、100点中88点。全国で8位にランクされた。上位ランク者はほぼ帰国子女なのだろうが、僕はそれでも負ける気はしなかった。

その模試での偏差値は70だった。一般の全国模試に直すと、大体偏差値80超えたラインに相当する。僕は6月に立てた目標、英80、国80、数70後半、公民60後半を最後の最後で達成したのだった。

迷うことはない。僕の受験はさらに加速する。「ここまで来たから安心」などという気持ちは、これっぽっちも無かった。

僕にとって、完全合格して夜間を抜けだす事は、奇跡を超えたさらなる領域である。「どこでもいい」僕は合格したかった。余裕など微塵もない。むさぼるように勉強を繰り返した。

「落ちたら最後」、この言葉が毎日僕の脳裏によぎる。

僕はついに親に全てを打ち明けた。

「今年もう一度大学を受ける。お金なら必ず返す。一生のお願いだ。受験させてくれ」、僕の悲痛に満ちた声だった。親は動揺を隠せなかったが、これだけの成績を見せられたら誰も「やめろ」とは言えない。受験を許してくれた。

もしそれでもお金を出してくれないのなら、サラ金から借りてきてでも受験するつもりだった。今思えば馬鹿馬鹿しいかもしれないが、当時の僕は、それだけ危機迫る状況だったのだ。

受験大学を決めた。「やりたいことで学部を選びなさい、偏差値じゃないんだよ」、こういう世の風潮に対する、最後にして最大の反抗だった。

「勉強なんか大嫌い。どこでもいいから、ブランドが欲しい!」

第一希望は東大文学部の後期試験。

そこからは何でもありだ。文学部から、経済、法、商、外国語など文系完全制覇!「オマエは一体何が勉強したいんだ?

早稲田政治経済学部(偏差値3教科67)、早稲田法学部(偏差値3教科66)、早稲田商学部(偏差値3教科65)。慶応大学総合政策学部(偏差値英語1教科70)まで受験。

そして国立前期が空くので、東大ステップのために、日本で一番難しい英語入試と言われる「東京外国語大学、英語学科」(偏差値71)の受験を決めた。ここ合格すれば、大阪外語大との「日本2大トップ外大完全合格」が実現することになる。

未だロ−マ字発音、全然英語が聞けない喋れない、しかし問題だけは完璧に解ける「受験マシ−ン」の、最高のパフォ−マンスである。「吐くほど頑張れば、それでも合格するんだ!」相変わらず僕はそう叫んでいた。

計6校。これが僕の最後の舞台だった。これで落ちたら、もう僕には「受験」は不可能な領域である。

こんな惨めな人生があるだろうか、僕は何度も自分に問いかける。

すると自然と机に向かえる。この時はもう無心だった。何も見えなかった。「失敗してもやり直せるさ」、こんな逃げ道は無い。だから極限のレベルまで自分を追い込んだ。

そんな中、国立大学一次試験である「センタ−試験」の受験表が届いた。戦いの緒戦はどこから始まるのか。

僕はその試験会場に目を疑った。とんでもない名が僕を凍らせる。そう、そこにはこう記されていた。

「試験会場、神戸大学」、と。

僕に与えられた最後の舞台は、あの「神戸大学」だったのだ。今までの2年間、ここが全ての舞台だった。この地で様々なことを思い、苦しみ、「抜け出してやる」そう決意した。そしてようやくたどり着いた。その終幕の場所が「神戸大学」だった。

何もかもが出来過ぎだった。

ふと、これまでの戦いを振り返ってみる。1浪目の有り得ない全敗不合格からカズヤの合格、そしてシンジさんとの腐った2浪目、昼間生との偏差値80決戦、模擬試験ビラ、大阪外語大奇跡のキャンセル。考えてみれば「筋書きがあった」としか思えない2年間だった。

僕はその時、ようやく気付いた。「これはドラマなんだ」と。

今まで「何でこんなにツイてないんだ」、こう漠然と何度も苦悩した。その答えがここにあったのだ。

「これはドラマだ、僕は今とんでもないドラマを歩んでいるんだ、日常にないこの加速は、すべてドラマなんだ」

僕は震えた。

平和で平凡だった高校時代が懐かしかった。毎日友達とバカやって笑っていたあの頃にはもう戻れない。今、自分は抜け出せないドラマの中にいた。

 

 

 

16、雪舞う神戸大キャンパス!運命のセンタ−試験が始まる!

 

 

 

センタ−試験決戦日。僕はいつもの見慣れたキャンパスに立った。「神戸大学」、これが僕の前に立ちはだかった。しかし今日はどことなく、いつもと違う様に僕の目には映る。 「最後の最後までここか」、僕は受験票を握り締めていた。

雪が降ってきた。

僕は凍るような寒さの中、大学を睨みつける。

「そうか、分かったよ、とことんやろうじゃないか!戦いだ!命を懸けた戦いだ!」

誰に挑む戦いなのか。敵は大学か?夜間か?クラスの連中か?いや、違う。今の僕にはそんなものどうだっていい。

僕がこれから挑み、そして今まで挑み続けてきたのは、他でもない「自分自身の運命」だった。「夜間」だ、「コンプレックス」だ何だ言ってきたが、それは全て自分の「運命」への挑戦に過ぎなかった。

「自分なんかダメだ・・・」、運命に白旗を揚げれば全てが楽に慣れた。

ただこの運命は、僕に余計にチョッカイを出し過ぎた。これでもかと、僕に「ドラマ」という不幸を押しつけてきた。それはヤリ過ぎだった。

だから僕は戦う。「負け」はない。最後まで決着をつけてやる。運命とは何だ、自分とは一体何なんだ、地獄の底まで食らいついて、とことん見極めてやる。

命を捨てた、その時の僕は原点だった。

2年間かけて追いかけていたものは、紛れもない「自分自身」だったのだ。

 

 

結果は合格ラインである、4教科90%を超えた。国語は「漢文」で手こずったものの、英語、数学では190点ラインをクリア。これで東大の1次試験は難なくパス。僕は倍率15倍から5倍へと進んだ。

あくまでセンタ−は前夜祭みたいなものだ。こんな所でくじける訳にはいかない。僕の加速は誰にも止められないのだ。

そして2月がやってくる。勝負を決する月である。ドラマはクライマックスへと走り出した。

 

17、2月。最後の涙!「こんな人生なら、もうやめだ・・・」、

  思いも寄らない最悪のスタ−ト!

 

 

 

入試直前まで家にこもって勉強し続けた2月19日。夕方に僕は神戸を出発した。

「ここには二度と帰ってこられない」、そう噛み締めると僕は新幹線に乗り込んだ。車窓の景色は暗闇に包まれていた。

 

東京の実家に着き、早めの床に就く。

僕の心臓が高鳴っている。明日から連続で4日間、試験が続く。最後の勝負だ。最初の一発目は慶応大学のSFC。過去問題では確実に9割以上は取れる。「分からない」なんて事はまずない。受験者対象の模試では8位。シンジさんが繰り返した。「その成績は神の領域だ」と。

受験は確かに運もある。成績の思わしくない奴が、奇跡で受かったり、逆に確実と思われていた奴が落ちたりもする。しかし絶対に受かる「神の領域」があるというのだ。それは志望の大学の全受験希望者のうち、成績最上位10名の者を指す。この聖域は「運」など作用しない。

2年前僕が普通の高校生だった頃、模試の成績ランクに上位10名に記されている優等生を見ては、「こいつらは良いよな、落ちることなんてないもんな」と羨ましがっていた。また、どうやればそんな所に行けるのかさえ分からなかった。

その「神の領域」に立って、僕は初めて気付いた。不安で不安でたまらないのだ。やればやる程、力が付けば付く程、僕は不安の極致に追い込まれた。

いくら僕でも、3教科の早稲田ならベスト10などには入る力はない。3教科全部80オ−バ−のツワモノだっているはずだ。上には上がいるんだ。

しかし明日のSFCは英語と小論文。同じ方式で、ここより偏差値の高い、大阪外語大には受かっている。正直僕にとって、一番受かる確率がある学部だ。少なくともベスト10には入る自信がある。だからこそ明日決めなくては、「受験全滅」を意味していた。

「良かれ」と思って、SFCを最初にもってきた。今までの成績が僕を勇気づけると思っていた。ところが事態は全然違った。逆に僕は緊張に呑み込まれた。

一晩中、2年間の苦しみがよみがえり、落ちたときの命を奪われる恐怖が、僕を押しつぶした。睡眠薬を3個も飲んだ。それでも眠れない。眠れればなんでもいいと思い、「カゼ薬」までも大量に飲んだ。「早く寝ないと」、焦れば焦るほど僕はおかしくなっていく。いくら力があっても、究極の集中力を要するSFCの難問だ。万全で挑みたい。

去年も試験前は緊張した。しかし今年はそれをはるかに上回るパニックだった。「絶対に落ちることのない成績」を取った。しかしその栄光が、逆に重くのしかかる。本当に信じられない皮肉である。

「何でなんだ、どうしてなんだ」僕は一晩中唸っていた。夜が明けた。結局一睡も出来なかった。

目は真赤に染まり、叫び続けていたせいで喉も枯れている。「ちきしょう、ちきしょう」僕はそう何度も小声を吐きながら、家を出ていく。何かにとりつかれた様なその格好は、誰が見ても異様だった。

試験が始まった。そこで僕は、ついに全ての限界を迎える。

何も考えられない極限の状況の中で、僕は試験用紙の英文を眺める。いつもはスラスラ読めていたが、今日はいくら読んでも頭に入ってこない。神経がもうろうとしている。「落ちる、このままだったら落ちる」、恐怖が最高潮に達したその時だった。

強烈なめまいがして、世界がぼやけた。そこで全てが終わったのだ。

トイレにかけこんだ僕は、吐いていた。極度の緊張からくる神経的な症状だった。さらに昨晩の睡眠薬や風邪薬の、過多な摂取も災いしたのだろう。胃が痙攣しているのか、吐き気がいつまでも止まらない。

実際1月に入ってから、ストレス性の血便が止まらなかった。健康管理はしていたが、神経の方まではどうしようもなかったのだ。体は悲鳴をあげていたのだろう。ここにきて僕はついに、限界に打ちのめされた。

 

帰り道、緊張から開放され笑顔がこぼれる受験生の人波の中で、僕は顔をグシャグシャにしながら、泣いていた。結局この日、試験用紙を前に何にも出来なかったのだ。屈辱の何ものでもない。「ここだけは受かる」、その自信が一番のプレッシャ−だった。

よく受験参考書には、「本番前は誰でも緊張するんだ。だからそんなのには打ち勝て!」といったメッセ−ジが書いてある。「誰でも同じように」というが、本当にそうなんだろうか。それはあまりに厳しすぎる話だ。少なくとも僕は、2年と半年の受験には耐えられた。しかし「本番」というその重圧には、耐えることが出来なかったのだ。

32カ月の戦いの結末がこれか、何も良いことなんてないのか、そう思えば思う程、本当に惨めだった。

「こんな人生なら、もうやめだ・・・」家に戻っても、僕は涙を抑え切れなかった。3度目の涙だった。

 

 

しかしこれが最後だった。

この最後の涙が、もう願うことすら忘れてしまった「勝利」を呼び込むのだった。そう、ラストシ−ンはついにここから始まるのだ。

「奇跡」が静かに僕に舞い降りた。

 


 

 

偏差値70からの大学受験Part9に続きます。

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ABOUTこの記事をかいた人

東大理三を目指して浪人し、東大模試で理三A判定、センター試験本番で93%得点したところまでは良かったが、550点中1.8点差で不合格になり、慶應医学部に進学して、勉強法ブログをずっと書いているどんぐり。 あと英単語・古文単語学習用アプリを作っています。